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世界に一つだけの旅エピソード

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たんぽぽ1001さん(男性)の旅エピソード [2013-03-28 11:03:57]
ある青年は船旅をしたいという夢を持っていた。それも豪華客船ではなく、小船で島々を訪ねるという旅を。

 青年というのは、もちろん私だ。私にも青年と呼ばれた時代は確かに存在した。

 夢の実現にはとりあえず海技免許が必要だったので、小型船舶操縦士免許教習所の門をたたき、2日間コースの講習を受けて、そのまま国家試験。

 運良く合格したので、早速耐水ベニア製の格安の中古ミニクルーザーを広島県で購入し、大阪への回航のため、勇躍海に乗り出したのは昭和52年春3月。

 当時、ヨットには船検の制度は無かったので、今で言う法定備品などは積載しておらず、私の艇に装備されている救命設備といえばライフジャケットとビニールの浮き輪が、それぞれ一つだけという信じられない軽装備だった。


 私が、どの程度の素人かと言うと、何を隠そう、それまでは公園の池の手漕ぎボートと4級免許取得の際のモーターボートしか操船の経験がなかった。そのモーターボートにしても海ではなく、大阪市内を流れる中之島公園周辺の川で、数時間ハンドルを握っただけ。つまり、海と名の付く所へ、舟艇と名の付く乗り物で乗り出したことは一度も無い、いわゆる『ズブの素人』または『どしろうと』と呼ばれるレベルだった。

 免許取り立てのペーパー船長である私は、広島から大阪までの回航について、たかが瀬戸内海、公園の池より少し広いだけで陸地に囲まれた水路ではないかと考えた。


 その根拠は中学生時代に使っていた社会科の日本地図を見て計画を立てたからで、せめて海図を参考にすれば、こういう砂糖とサッカリンをシロップで混ぜ合わせたような甘い考えで出航することになる愚は避けられたかも知れない。

 車の免許でも、船の免許でも、免許を受ければ車や、船が欲しくなるのが人情である。雑誌の広告を見て、格安の艇を何も考えず買ってしまった。


 普通、艇を買う前に、どこかの艇のクルーになるか、若しくはヨット教室に通い、基礎から技術を教えてもらい、それから自分の目的に見合った艇を購入するというのが正しい入門方法であるが、当時そんなことは全く考えもせず、車と同じように免許があれば乗れるものと信じて疑わなかった。

 世間ではこういう物品購入方式を衝動買いという。私には昔から衝動買いの癖があったのかも知れない。車を買った時もそうだった。自宅でのんびりしているところへセールスマンが来た。   
    
「車はいりませんか」 
       
と言う彼に私は言った。
    
「一台持ってきて」

唖然とするセールスマン氏。恐らく彼のセールス歴の中で最も簡単な契約だったことに違いない。 

                      
 100万円単位の中古艇の広告が並ぶ中で29万円というのを見つけた。海も船も知らない私には、29万円のヨットがどんなシロモノであるか、正しい判断を下す能力があるはずも無かった。


 木造、FRPコーティング、19フィートという文面と値段だけを見て、さっそく売主に電話し、実物を見もしないで
「買います」
と言ったのだから無茶苦茶である。さらに大阪まで乗って帰ると言うと売主は
「陸送の方がいいんじゃないですか」
と言う。電話だけで、すでに素人であることを見抜かれている。

 さらに、回航するならエンジンが無いから『UL』を用意しろと、わけのわからないことを言った。

 いまさら、それは何ですかと自ら素人を暴露するようなことも聞けず、わかりましたと答えたが、さて困った。


 『UL』とは何の暗号だろうか。そんな言葉は教科書にも載っていない。とりあえずエンジン屋さんに行って、この暗号を解いてもらった。


「それは船外機の足の長さのことで、ウルトラロングという最も足の長い船外機のことです」


と、さしずめウルトラショートとも言える私の足を見ながら説明してくれた。


 早速、そのULを買い込み、車のトランクに放り込むと、一路広島に向かって、ひた走る。まるで初恋の女性に会いに行くようなウキウキした気持ちだった。


 その昔。相手の顔も見ないで親の決めた男の元に嫁いで行くことがあったと聞くが、考えてみれば私と、この艇も似たようなもので、未だに写真でのお見合いもしていない。

 私を出迎えてくれた売主は、冬だというのに、たくましく日焼けした、いかにもヨットマンという風情の青年で、片や、どこから見てもヨットマンには見えない青白い顔をした私とは全く違う世界の人間だった。彼は自宅の目の前に広がる波静かな入り江に私を連れて行くと、沖を指差し、


「あれです」


と私の愛艇になる予定のヨットを紹介した。朝もや漂う海面の50メートルほど沖合いに真っ白い船体の一本マストのヨットが浮かんでいる。

 その清楚な姿は白鳥とまではいかないものの、白いアヒル程度の気品は備えていたが、これは


「夜目、遠目、傘の中」


という、ブオトコやシコメでも、ちょっとしたはずみで美男美女に見えてしまうという好条件が整っていたことによる錯覚だった。

 売主が操る足舟で愛しのアヒルに案内してもらったが、彼女に近づくにつれて、モヤが薄らぎ、次第にその輪郭が鮮明になった。

 つまり、綿帽子や角隠しで隠されていた花嫁の素顔が白日の下に晒されたのである。私は


「顔や姿ではない心だ。いや身体だ」


と、しきりに自分に言い聞かせていた。

 我が愛艇は、人間で言えば、すでに子供の5〜6人は生み終えたような・・・左舷の窓は割れたままで、コクピットの側板は多数のひび割れがあり、おぞましいことにキャビンの底にあるセンターボードは錆の固まりとしか形容の仕方が無い。

 ラインも、いつ切れてもおかしくないほど年季が入っていたし、エンジン取り付け用のブラケットは腐った板と、錆びた鉄板を螺子で留めてあり、エンジンを取り付けたとたんに、ブラケットごと海に落ちるのではないかと心配しなければならなかった。 

 今更、このフネはいりませんと言ったところで、ヨットマン氏も、せっかく引っかかったカモをみすみす逃がすようなヘマはしないだろうと諦め、私のお見合い。いや、結婚式は終わった。

 さながらウブなお坊ちゃんが、コブ付の出戻りと政略結婚させられたような気分で、意気消沈しながら


「果たして、あのボロで広島大阪間を無事乗り切れるだろうか」


と心配になった私は、とても一人で挑戦する気は無くなり、新たな犠牲者を探した。

 とりあえず暇をもてあましていそうな大酒呑みの友人を捕まえて

「ヨットで広島から大阪まで旅行しよう。夢とロマンがいっぱいある。」

と誘う(騙す)と、お人よしの友人は何の疑いも持たず

「行ってもいいよ」

 とあっさり返事をしてしまい、船上の人となったのだが、人間、言行は慎重にしなければ思わぬ不幸に見舞われるという見本である。

 この人も私同様の素人で、海といえば海水浴場しか知らない人だったのは言うまでもない。普通、人は失敗すれば反省し、同じ愚を繰り返さないように注意する。


 しかし、彼はまた暴挙に出た。この航海の数年後、今度は単独航海に挑んだ。それも17フィートという可愛らしいヨットで大阪から鹿児島まで、それも太平洋廻りで行ったのである。

 彼はヨットという乗り物は、かなり安全な乗り物で少々無茶をしてもなんとかなるものだという誤った認識を持っていたが、それはきっと私との最初の航海で得たに違いない。

「故郷へ帰るけど、ヨットで帰ろうと思っている。どこかに安い中古艇はないかな」    

 と相談を持ちかけられた。安いのは所詮安いだけのものであることは充分に分かっているはずだったが又も格安艇を買い込み、大阪堺港から錦江湾目指して錨を上げた。

 さすがに今度は夏という季節を選び、規定通りの安全備品を積載していたが、食料はメインが酒だった。

 酒樽にマストを立てたような船で紀伊水道を遠ざかっていく彼を見送りながら、彼の遭難を伝える新聞記事はいつになるだろうと楽しみにしていた私だったが無事鹿児島に着いたから驚いた。

           ★

 話は戻って・・出航。無風快晴。広島から大阪までの旅は始まったばかりだ。

「いい天気ですね。さあ、帆を上げましょうか」

「このヨットは風が無くても帆を上げたら走るの?」

 かくして記念すべき第一日目は終始エンジンに頼ることになった。

 航海は順調。青い空、白い雲。ひねもすのたりのたりの春の海。穏やかな海面を滑るように進むヨットにスナメリの夫婦が並走するのを見ながら、熱燗で身体を暖める。夢はいとも簡単に実現した。ような気がした。

 夜、夜光虫が幻想的に航跡を浮かび上がらせるのに感動しながら、見知らぬ港に入る。もっとも素人の私に知っている港などあろうはずもない。

 親切な漁師さんが係留場所を案内してくれる。島の人が銭湯の場所を教えてくれ、さらには銭湯が閉まらないように電話までかけてくれた。島の水は少なくて早く閉まるらしい。

 子供が干物を差し入れてくれる。それをアテに、夜空の星を眺めながら酒を呑む至福のひと時。釣った魚と浜から掘り出したアサリも豪華なメニューになる。

 心地よく揺れるキャビンで眠りにつく。これほど贅沢かつロマン溢れる旅はない。しかも燃料は風だけだから殆どお金はかからない・・・はずだったが、この点だけは計算外だった。

 やはり瀬戸内海は、知れたものだし、ヨットでの航海なんて簡単だと考えたが、こういう思い上がりには必ず天罰が下されることになっている。

 二日目、海は荒れた。

 港を出ると、そこには昨日の青い海は無く、風で波頭が飛ばされ、白く泡立つ海面が広がっていた。島々は墨絵の様に遠くくすんで、空も海も島も灰色一色に溶け込んでいる。

 波を超えるたびに船底が腹を打ち、ドーンと大きな音を立てる。次の瞬間、船尾は大きく持ち上げられ、船外機のプロペラがギャーと鳴きながら水中から飛び出し空回りする。

 私はビニールの浮き袋を肩に相棒の様子を見ると、ちゃっかりと一つしかないライフジャケットを確保し、キャビンで焼酎を呑みながら小説を読んでいる。


 誤解の無いように付け加えるが、キャビンといっても、ただの板の間である。


「まくら代わりに浮き袋はどう?そのライフジャケットと交換しよう」


「いや、座布団代わりにちょうどいい。そっちこそもたれるのに浮き袋の方がええやろ」


 敵もさる者で、唯一のライフラインを手放そうとはしなかった。

 ”カルネアデスの板”という、緊急避難の原則がある。船が難破した時に一枚の板切れだけが、唯一の浮力物で、しかも人間一人分の浮力しか無い場合、他の人間から、それを奪い取って自分だけが助かっても違法性は阻却され、罪に問われることは無いというものであるが、この時の私達はニコやかな笑顔の下で、万一の際はこのライフジャケットがカルネアデスの板に変化するかも知れないと考えながら、いっそう和やかに酒を酌み交わしていたのであった。

 下ろして縛ってあるセールがバタバタと恐ろしい音をたて、船首からは激しく海水が流れ込んでくる。こんなはずではなかった。私の期待していた船旅はロマン溢れるものであって、けっして地獄の決死行ではなかった。


 男木島の港に逃げ込むことに成功した時は精魂尽き果てて、そのまま泥のように眠り込んだ。翌日、雨はやんでいた。終日無風曇天。

 この艇は、初出航以来一度もヨットとしての機能を果たさずエンジンだけで走っている。無風か強風かのどちらかで、何の経験も無い私達にはとてもセールを上げる勇気はなかった。第一、どういう風にどのセールを使うかという基本があることさえ知らなかった。

 今日もマストやブームは物干し竿としてのみ、その存在意義があり、濡れた衣類がぶら下がっている。難民船でさえ、これだけみっともない船はないだろう。

 小豆島が見えて港に近づいた時、突然エンジンが止まった。故障だ。


 ここにアヒル号は一度もセールで走らなかったばかりか、ついに手漕ぎボートに成り下がってしまった。


 手にマメを作りながら漕ぐ。なかなか進まない。漕ぐようには出来ていないから当たり前だが、このまま艇を捨ててフェリーで帰ろうかとさえ思う。優雅なヨットがいきなりハードスポーツに様変わりし、手の豆がつぶれた頃、なんとか岸にたどり着き、地元の修理屋さんへエンジンを担ぎこんだ。エンジニアは慣れた手つきであちこち点検すると私に言った。

「2サイクルエンジンオイルの量が多すぎるからキャブにオイルが溜まってガソリンが流れなくなっていただけ。規定の量を守りなさい」
「ハイ・・・」

 四日目、軽風曇天。セールを上げる。2枚の帆が初めて私たちの手で、マストいっぱいに広がった。これでこそヨットだ。  

「これで次は、どうするの?」

「そこに、初心者のためのヨット入門という本があるでしょう」

「これか、なになに、このシートとかいうのを引っ張れば動くのかな」

「動いた、動いた。しかし、わりと傾くね」

 馬鹿である。ワイワイやりながら初のセーリングを楽しみ、そのまま明石海峡から大阪湾へ流れ込んだ。こうなればこっちのものだ。あとは大阪湾を南下し、見事予定していた漁港に到着したから人生いいかげんなものだ。


 今思えばうまく潮流に乗れていたわけで、転流時間も潮汐もあったものではない。幸運としか言いようの無い初航海だったのは間違いない。 

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