春は園路に一面の芝桜の絨毯が出現することから地域で人気。
GW時期に里見公園のバラと郭沫若記念館の芝桜をハシゴ観光がいい感じ。
■概要
中国楽山出身の郭沫若(かくまつじゃく)氏は、文学者・歴史学者・政治家として日本と中国の架け橋となる活躍をした人物である。
記念館は実際に郭沫若氏が住んでいた旧宅を市制施行70周年を機に真間5丁目公園に移築・復元したもの。
■感想
●郭沫若(かくまつじゃく)とは何者か
簡単に述べると中国の裕福層の息子である。
地方の小さな町(180世帯しか住んでない)の大地主である郭家の8番目の末っ子(兄弟は四人しか生き残らなかった。ママ頑張って生み続けた)として生まれた。
上に3人兄弟がいて、彼らから外国文化や西洋の書物、日本への留学経験等の話を聞いて影響を受けた。
●教育ママの強い影響を受けた
郭沫若が幼いころはギリギリ科挙が実施されており、なんと四歳から兄たちと科挙合格に向けて勉強していた。しかし受験年齢に達する前に科挙は廃止され、西洋式学習法が導入されて近代式教育へと変わっていったのだった。
ママをはじめとして教育熱心だった郭家は柔軟に適応して郭沫若にぼこんぼこんと最新式の教育を詰め込んでいった。
元からママの学力が高く、直に漢詩や文学の知識を叩き込まれていた郭沫若は自国の文化と外国の文化とハイブリッドに育っていく。
中でも古典大好き文学少年としてゴリゴリに仕上がっていくのだった。
●意に沿わない結婚から逃げて日本に留学する
22歳の時、親が定めた結婚を拒否して日本に逃亡する。
(お嫁さんは嫁として郭家に死ぬまで嫁ぐ。郭沫若は生涯で三回結婚するが、実家に嫁を残してる状態で事実婚。婚外関係者も複数いた。「金持ちのボンボンらしい色好きだな」と場んでっとさんを唸らせる。)
●医者になろうとしたが断念した
日本に留学して第一高等学校(東大)に合格。
一高を3番目の成績で卒業すると岡山の第六高等学校第三部医科に配属、在学中に看護師の日本人女性と事実婚。
九州帝国大学医学部に無試験で入学。
しかし若いころの病気の影響で難聴だったことから打診と問診がうまくいかず医者の道を断念。
熱狂的に詩歌創作を行なっていて、そのまま文学の道に進むこととなった。
●日本で出版会社を立ち上げて中国新文学を旗揚げ
在学中に出版会社を立ち上げ、留学生たちと新しい文学に取り組む。
これが大好評で人気上々。
文学家として名を上げていく。
卒業後は実績を手土産に中国に帰国するが革命軍に参加して対毛沢東戦線に加担する。
しかし共産主義への反抗は失敗に終わる。
同士であった蔣介石と反目し、粛清に遭おうかというギリギリで奥さんの実家である日本に亡命するのだった。
●波乱万丈な郭沫若の人生
郭沫若は奥さんとこどもを残して毛沢東への協力のために一人中国に帰る。
毛沢東政権は知名度のある郭沫若を利用して文化大革命を推し進める代わりに命を助けるとしたのだった。
それまで親日家であり自国の古い文化を愛していた郭沫若は不本意ながらこれに協力する。
焚書と激しい自己批判、文革に追い込まれて息子まで亡くす。
辛酸をなめる生活へと突入するのだった。
●日本に亡命中の郭沫若の住まい
妻・佐藤をとみの郷里である市川市に亡命の身を寄せた郭沫若の生活は厳しいものだった。
日本の警察(特高警察)や憲兵から思想的危険人物として絶え間ない監視と厳しい尋問を受ける日々を送っていた。
ほぼ軟禁状態で家に引きこもる毎日。
自宅にこもって中国古代史や甲骨文字・金文の研究に没頭した。
厳しい監視を受けながらも、武田泰淳や竹内好など日本の中国文学者たちとの交流を築いた。
彼らの依頼を受けて雑誌の題字を揮毫するなど、限られた範囲で文化的な繋がりを持っていた。
辛い生活ながらも大好きな文学で生活を満たそうとしたのだった。
当時の旧宅は現在市川市に移築・復元され、市川市郭沫若記念館として公開されている。
●営業日は毎週金・土・日曜日。平日は営業してない。
生涯や業績を紹介するパネル、日中友好の歴史を物語る写真や資料、愛用の調度品、直筆の書などが落ち着いた和風建築の空間に展示されている。
郭沫若の出身地である中国・楽山市と市川市が友好都市であることから、両市の交流の歴史を示す展示も行われている。
亡命してた割に立派な一軒家を建てており、こういうのが特高警察や憲兵から目を付けられたんだろうなあ、と所感。
日本に来てから住むために建てたものだそうだ。